• 2009-08-03 08:32:01
  • 身近な地域性 -大分・絞り染めのふるさと 編-
前回のブログで登場した有松絞り。
そのルーツは、九州 大分県の「豊後絞り」にありました。
今回は「絞り」をキーワードに地域性のリレーをしてみたいと思います。

* * * * * *

■豊後絞りとは
豊後絞り(ぶんごしぼり)は豊後国(大分県)で始められた絞り染めの名前であり、そこから発祥した技法の名前でもあります。
豊後絞りは1600年の初め頃にはすでに括り始められ、全国的に広く知られていきました。
江戸時代から明治末期までの紀行文や産物本、浮世絵などに豊後絞りは多く記されています。
また、三浦氏の一族によって作られた木綿を使ったことから「三浦絞り」とも呼ばれています。
有松絞りでもご紹介した、“野の花を敷き詰めたような、「三浦絞り」”の技法は、ここから生まれたのですね。
同じ技法は有松・鳴海から秋田県に伝わり、こちらでは「なるみ」と呼ばれているのだとか。
豊後絞りの仲間に、県内の別府で行われている別府絞りというものもあります。
別府絞りは、温泉地ならではの豊富な温泉の熱と土を利用して染め上げた絞りの一種です。

でも、残念なことに豊後絞りは明治の半ばに姿を消してしまい、昭和の頃にはほとんど忘れられてしまったのです。
現在では、一部の人たちの手によって小規模に受け継がれているそうです。

■絞り染めとは?
そもそも絞り染めって何でしょう?
奥が深い絞り染めですが、ここで簡単にご紹介したいと思います。

絞り染めとは、布の一部を糸で縛ったり、縫い締めたり、折ったりするなどして圧力をかけた状態で布を染める、模様染めの一種です。
圧力のかかった部分は染料が染み込まないので、そこに独特の模様が作られるというわけです。
布に圧力をかける作業は括り(くくり)と呼ばれ、括ったときに布にできる立体的なシワは独特の風合いを醸しています。

絞り染めは非常に素朴そのもの。
作業行程も複雑なものではありません。
そのため、絞り染めは、日本だけでなく世界各地に自然発生的に生まれてきました。
日本以外では特にインド、アフリカなどで伝統的な絞り染めがあります。
その他インドネシア、中国、中央アジア、西アジアなどにも見られるそうです。
また、現在では朝鮮半島や中国にも日本の絞り染めが伝わり、生産の一部が委託されています。
絞りは世界各地で行われている基本的な染め方ですが、それゆえに微妙な絞りの技法、染色、素材の豊富なバリエーションがあります。
そして、その違いに迫れば迫るほど複雑さを知り、現在でも自由な表現に魅せられる人も少なからずいるのです。

■ 絞り染めの地域性
日本全国に広がった絞り染めから、それぞれの地域性をはっきりと見つけることができます。
日本の絞り染めは、高級な「京鹿の子」と、庶民的な「地方絞り」に大きく分けられます。
京鹿の子とは、京都で作られる絹に絞った「疋田鹿の子絞り」のこと。
布に残る優美な凹凸は、手仕事のぬくもりと職人技の正確さを伝えています。
地方絞りは、木綿布を藍染めにする庶民的な絞り染めのこと。
豊後絞りや有松絞りなどがこれに当たります。

「地方絞り」が各地に広がっていったのは尾張藩による有松絞りの専売制が撤廃されてから、絞りの技術を持った職人たちが全国に広がっていったためだと言われています。
やがて江戸時代の後期から明治にかけて、日本各地に絞りの産地が起こりました。
職人たちが伝えた技は、それぞれの地域で採れた綿や染料、感性のもとで表現の幅を広げていきました。
しかし、多くの産地は第一次世界大戦後の不況や、第二次世界大戦中の物資の統制の影響などを受けて衰退してしまったのです。
現在では、豊後絞りのほか、岩手県の南部茜・紫根絞、福岡県の博多絞り、秋田県の浅舞絞、新潟県の白根絞り、熊本県の高瀬絞などで絞り染めが小規模に行われています。

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絞りの生みの親である、豊後絞りの衰退…
この状況を危惧した地元の人々たちが立ち上がり、現在は豊後絞りの復興が始まっています。
豊後絞りは、去年、未来に残したい遺産として「おおいた遺産」に選ばれたそうです。
その地域の財産を守ろうとしている一部の人たちが文化の担い手となって尽力している姿に、私たちは多くのことを学べるのではないでしょうか…。

次回は豊後の地での絞り体験レポートをお伝えします!

豊後絞り.jpg

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  • 2009-07-26 11:12:30
  • 身近な地域性 -有松・その伝統を感じる 編-
有松の町は、愛知県 名古屋駅から電車で30分くらいのところにあります。
ひっそりとたたずむ歴史ある街並みとともに、有松絞りが今も息づいている場所。
そこには世界に通用する地域の伝統の技と日々の努力と、文化の継承の問題がありました。
今回は、そんな有松絞りをもうちょっと掘り下げてガイドしたいと思います。

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■ 世界最高の技術
有松絞りは一粒一粒を丁寧に括りあげる作業をはじめ、すべて手仕事で作られています。
今では様々な染色が施されていますが、かつては藍一色でした。
でも、同じ柄を作っても、絞る人の力加減や括り方で染色に微妙な風合いが出ます。
たとえ藍一色でも、独特の風合いが大胆で華麗な模様を生み出すのです。
また、生地は地元の木綿を用い、絞りは立体的な模様を描きます。
このために心地よい肌触りと吸湿性を備えた、とても快適な衣類となるのです。

細かな斑点が美しい、「鹿の子絞り」
野の花を敷き詰めたような、「三浦絞り」
蜘蛛の巣のようなダイナミックな、「蜘蛛絞り」など…

材料は「糸だけ」と簡単な道具しか使いませんが、伝統的な絞り技法はなんと100種類にも及ぶそう。
単純な要素の中に、なぜこれほどまでに豊かな創造力の結晶が生み出されてきたのか驚くばかりです。

有松絞りは、もともと九州から伝わったものですが、今では日本の絞り生産量のうちの約90%も占めており、海外にまで輸出されています。
そして、各国でも世界最高の技術だと言われています。
毎年6月に開催される有松絞り祭りは、国を超えてお客さんが訪れるほど大変な賑わいを見せるのです。

■ 日々の努力のたまもの
有松絞りは伝統工芸品に指定されるなど、特別なもののように思われがちですが、かつては、日常の一部として有松のどこの家庭でも行われていました。
大人たちが毎日の仕事として行っていた有松絞りを、子どもたちは日々の光景として受け入れ、自然にその行程を学んでいく日常生活。
50年くらい前までは、それが当たり前の毎日だったのです。
ある伝統工芸士の方は、遊びながら有松絞りを覚えていった幼い頃の体験を語ってくれました。
危ないからと言って触らせてもらえなかった頃、ある日誰もいないときに、見よう見まねで途中掛けの生地の括りの続きをやってみた…。
でも大人のものとの違いは一目瞭然。

“括り方が全然違うもんで、後でものすごい叱られたこともあったりしてねぇ”と懐かしそうに語ってくれました。

そのうちに手ぬぐいや帯の端などの小さな絞りから練習させてもらえ、慣れくると大きな生地で絞れるようになっていったのだとか。
今では伝統を受け継ぐ者として、技術を教える立場になっている方々の姿を見ながら、文化はそうした生活の積み重ねによって、少しずつ作られていくものなのだと実感したひとときでした。

いくつかの場所では、観光客でも気軽に楽しめる絞り体験ができます。
伝統に触れながら、伝統工芸士の方々の色々なお話を聞きいてみるのもいいかもしれません。

■ 文化の継承の問題
有松絞りに限らず、日本が世界に誇る工芸品の数々は全国で見直されはじめています。
そうした伝統の技が今に残っているのは、地域の人々の絶え間ない日々の努力のおかげです。
でも、有松絞りでは、第一線で活躍しているのはほとんど60代〜80代の方々です。
有松絞りのお仕事は、1日かかっても一般的なアルバイトたった2時間分のお給料と同じなのだとか。
“若い人はみんな嫌がってしまう。だから国が何とか助けてくれないと”

完成に向かうための地道で長い時間への関心は、
完成品そのものに対する関心と同じくらい大切なもの。
もしかしたら、それは現代社会で見失いがちなことかもしれません。
でも、感性はそうした地道で長い時間を経て、ゆっくりと育っていくものなのでは… と思わずにはいられません。

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豊かな感性は、一部の限られた人だけのものではありません。
そこに暮らす人々とともに共有される地域の財産でもあります。
独自の地域性というものは、今あるものを、これからを生きる人が共感して、その技術と精神を受け継いでいくもの。
有松絞りのような世界に誇る伝統文化が、次の時代にも括られていくことを願ってやみません。


絞りの様子.JPG

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  • 2009-07-20 02:06:56
  • 身近な地域性 -東海道・ご当地名物 編-
物や人が行き交う文化の中継として重要な役目を持つのが、道。
今も昔も、そこではその地域の名物がお土産物として売られています。
今回は、ちょっと時代を遡って江戸時代に整備された東海道とご当地名物の関係について見てみたいと思います。

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■東海道の役割
東海道は、江戸から始まり京都までの日本に数ある街道のひとつです。
1590年(天正18年)に正式に江戸に入った徳川家康は、東海道が政治・経済・交通に欠かせないものと考えたのです。
家康は従来の藩中心の交通政策を、江戸を中心とする全国的規模のものへと改変しようとしました。
そのときに、江戸と京都を結ぶ東海道を定めたのです。
そして東海道には53の宿場が設けられました。
江戸時代の宿場は、大きく分けて二つの役割を持っていると言われています。
一つには、幕府の役人や参勤交代の大名に対する、人馬や宿の提供。
もう一つは庶民が集う賑わいの創出です。
宿場は人々の情報交換の場として、文化の流通路として、周辺村落の産物の販売所として機能しました。
つまり、宿場は地域の経済と文化の中心の役割を担う存在として、東海道はそれらをつなぐ存在として大きな役割を果たしてきたのです。

■ 道がご当地の名物を生んだ?
東海道などにより交通網が発達し、江戸には地方文化が集中することになりました。
そして江戸で地域の土産物が流行ものとして注目されると、旅人たちも競ってそれらを手に入れるようになったのです。
こうした地域の経済の活性化に大切な役割を果たす名物や特産品は各地で出現していきました。
そして需要とともに、より人気のある土産物として、生産技術や品質も向上していったのだと考えられます。
たとえば、東西の交流の十字路として位置づけられる中京地区の鳴海宿にある、有松絞りと呼ばれる絞り染めの伝統工芸品もその一つです。
有松絞りは、浮世絵師の安藤広重による東海道五十三次の「鳴海の宿」の中で旅の土産物として描かれています。
ここからも有松絞りの当時の人気ぶりがうかがえます。
江戸時代以降、絞り製品の大半を生産するまでに成長した有松絞りは、ある意味では道が生み、育てた名物とも言えるのでしょう。

■地域性と有松絞り
有松絞りは江戸時代の初め、徳川家康が江戸に幕府を開いてまもない1608年(慶長13年)に誕生しました。
もともとこの地域は丘陵地帯であるため稲作に適する土地ではありませんでした。
そんな中、この地域の住人である竹田庄九郎らによって、有松絞りは誕生したのだそうです。
きっかけは、名古屋城の築城のために九州から来ていた人々の着用していた絞り染めの衣装を見かけたことだったのだとか。
当時生産が始められていた三河木綿に絞り染めを施し、街道を行きかう人々に手ぬぐいや浴衣の土産物として売り始めました。
やがて、有松縛りの美しい図柄が各地で評判になっていったそうです。
時代は進んで、1900年(明治33年)にはフランスの世界万国博覧会で有松絞りが出品され、高い評価を受けたほどです。

* * * * * *

そして現在では、国の伝統工芸品に指定されながらも新しい可能性を模索し続けている有松絞り。
ご当地名物を造り上げるのは、単純に土壌の豊かさだけではありません。
東海道に見られる社会の構造、時代の流れ、そしてそこに住まう人々の創造力や努力などを含めた、全体的な地域性において熟成されていくものなのだと感じます。
それらが最終的にそれらが自然なかたちで調和しているとき、五感に気持ち良い、ご当地名物として人々に受け入れられるのではないでしょうか。

有松絞り.jpg

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  • 2009-07-12 21:35:27
  • 身近な地域性 -京都・鴨川と生活 編-
京都を流れる、鴨川に育まれた独特の文化。
それは今も大切に受け継がれ、現在もが生まれて続けているようです。
先週に引き続き京都の地域性を取り上げ、今週は「鴨川」の視点から見てみたいと思います。

* * * * * *

■鴨川の歴史
鴨川は京都の街を南北に貫いている川です。
鴨川は「賀茂川」、「加茂川」という漢字で記されたり、平安京の東部を流れることから古くは「東河」と呼ばれたりしていました。
また、鴨川は古くから氾濫を繰り返す川として知られていました。
鴨川の歴史は、水と人との戦いの歴史とも言えるのです。
たとえば、平安時代末期に絶大な権力を握っていた白河法皇でも、自らの意に沿わないものとして「賀茂の水」を挙げていました。
戦国時代末期に豊臣秀吉も水害を何とか抑えようとして、堤防を作ったそう。
その後も何度も河川改修事業が重ねられ、鴨川が現在のような穏やかな姿になったのは1947 年頃からなのだそうです。
京都の人々は長い戦いを経て、ついに鴨川に打ち勝ったわけですが、その分、川とともにすこやかに生きていくことを望む気持ちも強いのでしょう。
昨年、京都では京都府鴨川条例が施行されました。
これは河川環境を総合的に保護する、全国に先駆けた取り組みなのだそうです。
京都の人々の鴨川に対する思いは、今に至るまで特別なものであることがうかがえます。

■鴨川と人々の生活
現在、鴨川は人々の生活に潤い、憩い、自然などを体験することができるとても身近な場所です。
都市の中で鴨川のほとりで楽しそうに水遊びをする人々を見かけるのは地域の人以外には独特の光景に映るかもしれませんが、そんな光景の理由のひとつに、京都ならではの気候が関係していると考えられます。
京都の街は四方が山に囲まれた盆地であるため、風が通りにくく、夏は蒸し暑く、冬は寒いという特徴を持っています。
そのため、夏場は涼を求めて人は川に集まるのでしょう。
また、鴨川の夏は、川の西岸の先斗町などから川の中まで床を張り出す、「納涼床」という知恵も生み出してきました。
ほとんどのお店では壁、窓、天井、屋根なども敢えて設けないため、納涼床は非常に風通しが良いのです。
ここでお客は夕涼みをしながら料理を堪能する、というわけです。
納涼床は、京都の夏の風物詩として親しまれており、涼しいだけでなく、そこから季節を感じ、優雅に過ごす京都の人々の感性を感じることができます。
鴨川や気候といった自然条件と人々の感性がうまくとけ込んで、京都で独特の生活スタイルが育ってきたのだと言えそうですね。

■鴨川で文化を創造する
江戸時代では、鴨川の近辺では納涼床をはじめ、友禅染、歌舞伎踊り、歌など様々な文化が創造されてきました。
今もなお、鴨川と文化は切っても切り離せない関係のようです。
たとえば、鴨川と歌。
鴨川、という単語は演歌だけでなく、ポップスの歌詞の中にも度々登場してきます。
京都という特徴的な地域を鴨川が象徴することができるほど、他の河川よりも大きな意味を持っているのでしょう。
また、鴨川という場所が象徴するのは京都だけではありません。
ポップスや演歌に出てくるときは、恋愛の象徴として用いられていると言われています。
これは現代に始まったことではなく、なんと平安時代まで遡ることができるのだとか。
古くから鴨川は人々に豊かなインスピレーションを与えてきたのですね。

■ 鴨川と文明の起源
世界四大文明に共通するように、人類の文明の歴史をさかのぼると、そこにはいつも豊富な水をたたえる河川が近くにありました。
それに、温かな気候と大きく広がった土地も挙げられます。
水や川の存在は、人類に安定的な食料を提供してくれるだけではなく、そこに集う人々の活発な交流が行われる拠点になりました。
そうした中で、人々は川を慕い、敬う気持ちが育まれていったのです。
河川への特別な思いは、周辺の地域の名前として、神話のエピソードの一部として、川自体が信仰の対象として見出すことができるでしょう。

* * * * * *

川とともに生きてきた人間の生活から見えてくる共通点…
現代の京都の街に流れる鴨川と,いにしえの文明の起源…
水や川の存在が自然のお守りとしていつもそばにいて、人々の営みを育んでくれるのでしょう。

納涼床.jpg

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  • 2009-07-06 01:15:12
  • 身近な地域性 -京都・しきたり観 編-
7月に入り、京都の夏が始まっています。
そこは身近でありながら奥が深い魅力があるようです。
今回のブログは和の都市、京都の話題です。

* * * * * *

■ 京都に魅せられるもの
桜の季節、お祭りの季節、紅葉の季節、湯どうふがおいしい季節。
日本の四季や日本の伝統に浸りたいと思うとき、ふと京都に訪れたくなる人もきっと多いはず。
歴史的な建造物や景観の整った街並み、特色ある年中行事、独特のことば遣い、洗練された伝統的な衣装、土地にあった料理や調理方法など…数えたらきりがないほど、京都には魅せられる理由があります。

京都は平安京以来、日本の政治、経済、文化の拠点を担ってきた街。
歴史的に京都文化=日本文化を成立させてきた、いわば和の都市です。
一方、信長・秀吉・家康などが京都を支配することに執着したように、京都は朝廷、公家、神社仏閣等の宗教、幕府によって権力構造を変えられてきた激動の都市でもあります。
商人や町人の経済活動の一部も、江戸時代の終わりまで公家や所司代の管理下に置かれていました。
京都の文化は、そんな朝廷や公家、神社仏閣、時の幕府の威厳を示すために、形式や儀式などの「しきたり」によって形成されてきた背景を持っています。
貴族社会や神社仏閣も、社会の政変によって経済的基盤が変動を受けやすく、豪華絢爛な生活がいつまでも続かないことを経験してきたのです。
そのために、見た目の派手さではなく素材の価値に重きを置き、一見、しきたりにかなった質素を演出する生活を維持してきたと言われています。

京都の魅力溢れる歴史や伝統は、ある意味ではしきたりによって守られてきたとも考えられます。
街全体が、気品と誇りを漂わせているような感じがするのは、質素倹約のしきたりの中で熟成された、感性が息づいているからかもしれません。

■ 京都のしきたり観
しきたりとは、ある社会に共通してみられる行動様式を基礎にして成立した社会規範のことです。
最近では堅苦しい、面倒くさいという思いから、とくに都市部などで過剰なしきたりを気にしない場面も増えてきていますが、京都の人々は、地縁的なしきたりを大切に守っていると言われています。
それは、お互いがしきたりを守ることで、個人生活では一線を画し、一定レベル以上立ち入らないという、成熟した市民性を持っているからです。
厳粛な儀式でのしきたりだけではなく、日常生活でも、いくら親しくなっても他でみられるような奥座敷まで上がりこむといったことはないそう。
自分らしさを持ちつつ他人を傷つけない、ほどよい距離感を保つための緩やかな社会的なルールが身に付いているのかもしれません。
しきたりは、相手にいやな思いをさせないようにしたり、自分だけでなく相手に恥をかかせたりしないために存在しているものだと熟知しているのでしょう。
現代でも京都は文化が交わる拠点。
日本全国だけでなく世界各国から観光客が押し寄せ、常に他人を意識しながら生活しています。
古くから大事にされてきた京都流のふるまいとは、現代の国際感覚に求められている感性とも共通するのではないでしょうか。

■ 京都は十代かかってわかるもの?
とは言っても、代々受け継いできた風習やしきたりを守るのは、容易なことではありません。
毎日の所作として身につけ、伝承していかなければ京都の生活の知恵は会得できないのでしょう。
「京都十代,東京三代,大阪一代」というたとえもあるように、土地の人間になりきるのは東京は三代、大阪は一代かかるのに対して、京都は十代もかかるほど奥が深いのです。
これは、東京や大阪が新しいものを次々と生み出す消費の文化であるのに対し、京都は古いものを後世に残していく蓄積の文化であるからだと考えられています。
捨てずに受け継いでいくには、それを理解し、手入れし、整理していかなければいけません。
ある伝統的な町屋の住人は、建物を修理するための莫大な補修費用もさることながら、技術者の確保すら難しくなってきていると話していました。
また、変化する社会に伴い、しきたりと柔軟な対応とのジレンマも日々感じているのだとか。
誇り高い街が持つ、そのような痛みは傍観者ではとてもわからないものです。
地域性はその場の空気を吸って、五感から感じられるものではありますが、それが豊かで奥が深いほど、様々な側面をじっくりと理解していかなければ、その魅力を本当に堪能することは難しいのかもしれないですね。

* * * * * *

京都の地域性は時代や国境を超えて、注目を浴び続けています。
日本文化の一部として、京都の人々のしきたり観にも思いを馳せたいものです。

京都.jpg

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