• 2010-01-25 15:01:27
  • 感覚を遊ぶ -感覚とバランス 編-
前回は感覚と心身の健康についてお話しました。
私たちは気づかないときでも、何かの刺激を求めています。
刺激がたくさんあれば、私たちは元気に過ごせるのでしょうか?

* * * * * *

もちろん、そんなことはありません。
たくさんの刺激がありすぎても、
今度は苦痛を感じたり、
ストレスに悩んでしまったりすることはよくあることだと思います。
たとえば、人混みや騒音など、
ささいな日常の中にある物理的な刺激の量が情報処理能力を越えてしまうときもまた、私たちの健やかな生活を妨げてしまいかねません。

自分が抱えきれないほどのストレスに直面してしまうと、
無表情でぼんやりとしてしまったり、
創造的でなく型にはまったふるまいをしてしまったり、
ちょっと乱暴かもしれませんが、
重圧に耐えられなくなって「機械」のようになってしまうことがあります。

刺激がなくても、刺激がありすぎても、
私たちは健やかに過ごせません。
やっぱり、適度な環境が一番いいのですよね。

そうは言っても刺激の大小は個人差が大きい問題。
ある人にはとても苦痛でも、別の人にとっては平気なこともあります。
それに、個人の中でも刺激の受け取り方はいつも一緒ではありません。
たとえば、休日にショッピングで遭遇する人の多さを
「人混み」と捉えるのか?
「にぎわい」と魅力的に感じるのか?
自分の気持ちの持ちようによって、同じことでも180°違って受け取ることがあります。

たとえば、「騒音」の問題。
人によって騒音だと感じる音の大きさは違いますし、
個人の中でも、それが好きな音楽なら大きな音でも気にならなかったり、
嫌いな音だったら小さな音でも気になったりすることがあるかと思います。
騒音は地域社会の問題のひとつですが、これは愛着という感情と関係が深いと言われています。

ものの感じ方は人それぞれ違っていますし、1人の人間の中でも常に変化しています。
そのどれもが、そのときの自分がそう感じた以上、「正しい」もの。

刺激がなさすぎたり、過剰になっていたりして
心身のバランスは崩れていませんか?

* * * * * *


感覚を遊ぶことができるような、心の余裕を保てるように、
今ものごとをどう捉えているのか、ちょっと考えてみたいものです。

まちの人混み.png

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  • 2010-01-17 23:01:07
  • 感覚を遊ぶ –感覚のない世界 編-
前回までは感覚の役割や大切さについてお話してきました。
それでは、「感覚がないこと」はどういうことか、想像できるでしょうか?
今日は感覚と切っても切れない、健康についてのお話です。

* * * * * *

太陽の光や鳥のさえずり、電車や車の音など、
何気ない毎日の中にも刺激は満ちあふれています。
意識はしていないかもしれませんが、私たちはそういう環境で暮らしています。
もし長時間、光や音など刺激のない状態に人が置かれると、
私たちはどうなってしまうのでしょうか。

刺激のまったくない状態が続くと、脳はその状態に脳が耐えられなくなって、
自分で刺激を作り出し、感覚を疑似体験するようになります。
暗く静かな部屋の中、身動きも取れない状態で一人で長くいると、
たとえば、独り言や歌を歌い出すようになったり、
ときには見えないものを見たり聞いたりするようになるそうです。

感覚を味わえない世界は、心身にとってとても辛いもの。
さらに刺激のない状態が続くと、やがて私たちにとって、その場にいられないほどの生命に関わる苦痛となっていきます。
地震などで狭い場所に一人きりで閉じ込められてしまうと、感覚が遮られることによって耐えられないほどの苦痛を味わうことがあります。
そんな状況では1週間以上生き延びることが難しいと言われています。

刺激のない状態があまりにもひどく続くような場合、それは命を脅かすことになるのです。

また、刺激のない世界を味わっていると、脳も正しくはたらかなくなってしまいます。
日常生活でも、静かな室内で、一人じっと物思いにふけることはあるかと思いますが、
あまりにも長時間の場合、気持ちがどんよりとするばかりか、何となく冴えなくなってしまうことはないでしょうか?
それは、刺激のない状態が、脳のはたらきを鈍らせてしまっていることが原因のひとつなのです。

もちろん、日常生活の中で、刺激のまったくない状態なんてありえないかもしれません。
でも、楽しいことが見つからない、毎日がつまらなく感じる、といった意味の
「刺激のない生活」が長く続いてしまうようなら、
たとえ命の危険はないとしても、心身の健康にも脳にもやっぱり良くないのです。

そんなときは気持ちがびっくりしない程度に、
新しい刺激を入れ込んであげることが必要かもしれません。
お気に入りの音楽を流したり、
お香をたいたり、
入浴剤を溶かしたお風呂にゆっくりつかってみたり…
ほんの少しでもいいので、単調な時間に変化を作ってみましょう。

刺激を得ることによって、心身は活発にはたらこうとします。
大げさかもしれませんが、感覚を取り戻すということは、
脳が目覚めるような、生きる喜びを体験することです。

* * * * * *

ささやかでもいい、そんな生きる喜びを絶えず感じていたいものですね。

カーテン.png

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  • 2010-01-10 23:52:04
  • 感覚を遊ぶ -福を呼び込む音 編-
新年が明けて1週間が過ぎました。
その年を幸せに過ごせることを願って、お正月にはたくさんの風習や行事が盛り込まれてきましたが、みなさんはどのようにお正月を過ごされたでしょうか。
今回は、遊びの中の福を呼び込む音についてお話したいと思います。

* * * * * *

お正月といえば、どのような遊びを思い出しますか?
最近は思いっきり走り回れるような遊び場が少なくなってきている場所もありますが、子どもたちが楽しそうに遊んでいる様子は、ほほえましいものですね。
昔から伝わるお正月の子どもの遊びには、それぞれ年神さまの祭りの意味合いがあります。
江戸時代にはすでに、子供の元気な成長を願って、男の子に弓矢、女の子に羽子板を贈る習慣がありました。
伝統的な遊びの中の、弓矢の鳴る音、独楽が回る音、凧が風に鳴る音などには悪い気を払う力があると信じられていました。
遊びの中の音が邪を払うのは、人の気持ちを明るくしたり楽しませたりするからなのでしょう。

確かに、音には人の心を明るくしたり癒しの効果があるとされています。
縁起物といわれるものには鈴や下駄など音の出るものが多くあります。
遊びの中の音は、ただ聞くだけではなく、遊びという能動的な活動を通して笑い声を自分が出すことに大きな意味があります。
福笑い、という遊びはまさにお正月にぴったりの遊びです。
羽子板で負けた人の顔に墨を塗り、愉快な気持ちになってみんなで笑い合うのも、邪を払い、福を呼び込むものですね。

* * * * * *

現代なら、家族みんなで楽めるゲームなどで大いに笑って、明るい気持ちになり、福を呼び込むということでしょう。
こうした音がある場所には、人のにぎわいがあり、活気があり、そしてお正月ならではの新しい希望があるはず。
今年も一年、明るい気持ちで過ごせますように…大いに笑っていきましょう!

羽子板.png

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  • 2010-01-03 23:02:21
  • 2010年のごあいさつ
あけましておめでとうございます。
2010年もみなさまにとって
幸多き年でありますことを心より願っております。

おかげさまでクレイオは4期目に入りました。
クレイオの4年目は、 「4(し)んらい」と「4(よ)ろこび」の年です。

「4(し)き」折々に感じる「4(し)あわせ」を提供し、
みなさまに「4(よ)かった」!
と言っていただけるように日々努めてまいります。

本年も変わらぬお引き立ての程よろしくお願い申し上げます。

(株)クレイオ 


  • 2009-12-28 20:21:02
  • 感覚を遊ぶ –感覚、知覚、認知 編-
私たちのこころとつながっている大切な要素には、感覚、知覚、認知というものがあります。
その瞬間に感じる、嬉しいとか、悲しいといった感情。
それらは、それらを繋ぎ合わさった時間、人生にも大きな意味を持っているのではないでしょうか?
前回に引き続き、それらがどのようにつながっているのか、もう少し見ていきましょう。

* * * * * *

目や耳から入ってきた情報は、まず感覚や知覚と呼ばれるはたらきで処理されます。
感覚とは光を見たり、味わったりといった、私たちが外の世界を認識していくときに必要な基本的なセンサーのこと。
普段何気なく使っているものですが、それらによって私たちはさまざまなものを知ることができます。
また、感覚はトレーニングを重ねることで敏感になっていくものです。
何度も体験していくことで、今までわからなかった物の違いがわかるようになったなど、微妙な色や味の違いなどを区別するためのセンサーの感度を、体験を通して研ぎ澄ましていくこともできます。

次の段階では知覚と呼ばれるはたらきがあります。
たとえば、錯視と呼ばれる錯覚現象などはこの知覚の問題になります。
ミューラー・リエル錯視と呼ばれる下の図は、右側と左側の図形の縦線は同じ長さですが、右側よりも左側の図形の縦線の方が長く見えませんか?

錯視.png


このことは、私たちが知覚するということは、個々の要素の特徴よりも全体の中の関係性が問題になることを示しています。

それにここにはもう一つ、大切なことが隠れています。
それは、私たちが頼りにしているのは、物差しで測った物理的な長さではなく、「自分がどのように見えるか」という主観的な判断だということです。

つまり、実際の長さがどうということではなく、自分にとってどう見えるか,聞こえるかということの方が、自分たちにとってはずっと大切なことだということですね。

さらに、こうした全体の中の関係性を大きなひとつのまとまりとしてとらえ、それが何であるか、というような認知と呼ばれるはたらきがあります。
感覚や知覚は、目や耳から入ってきた情報がキーワードですが、認知では記憶の働きが必要になってきます。

自分にとってそれがなつかしかったり、大切なものと感じたり…
自分がそれをどう認識するかということは、感覚を使いこなすとともに、それまでに蓄積してきた記憶の内容、言ってみれば経験という名の引き出しの中にしまってある、自分自身のストーリーと照らし合わせることによって始めて成り立つわけです。

感覚というセンサーの感度や精度を研ぎ澄ますこと。
自分自身の経験の引き出しをいっぱいに満たしていくこと。
知覚や認知といったこころのはたらきは、その一瞬で終わっていくものではありません。
それらは人生という連続した時間を豊かに送るためにも、とても大切なことかもしれませんね。

* * * * * *

2009年も残りわずかとなりました。
今年もKLEIOの五感ブランディングを読んでいただきまして、どうもありがとうございました。
この1年が素敵な年であったことを心から願っています。
どうぞ良い年をお迎えください。

夜景.jpg

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